亡き母へ“今”伝えたい想い
―憧れ、導かれた両親と同じ農家になったことで―
いなくなった“おかあさん”へ届けたいメッセージを書いてみませんか?
■思い出の品は“両親が築き上げた さくらんぼ畑”
現在、タケルさんは“日本一の山”富士山の麓にある山梨・河口湖町で、農業を営んでいる。
タケルさんが母を亡くしたのは、14年前……。母を亡くした直後に、なんと父も旅立ってしまった。当時はまだ学生だった。
自然豊かな山梨で、さくらんぼ農園を営んでいた両親は、「よくケンカをしながらも楽しそうに農作業をしていた」という。そんな環境の中で育った“活発で目立ちたがり屋”な少年は、両親に導かれるように“農家を、ふたりの跡を継ぎたい”という思いにかられ、農業人生を歩む覚悟を決め、大学卒業後に継ぎたいという気持ちを伝えた。
しかし、大学卒業を控え、“いよいよ”だというタイミングで両親は旅立ってしまった…。
「学生だった俺は急に一人で跡を継ぐことを考えることができず」とあるように、一度は農業から離れた人生を歩むこととなったが、改めて、湧いてくる“農業への、親の仕事への憧れ”が捨てきれず、兄が継いだ実家の畑とは、別に一から自分で農家を立ち上げたのだった。
タケルさんは、両親の苦労に想いを馳せて
「一から始める大変さを共有しています。農業で生計を立てることは大変なことですが、両親は私を含め3人の子供を大学に行かせるまでの篤農家になっていました。だから自分も負けていられない。子供をちゃんと大学まで行かせる、という目標というか指針となっています」と語る。
さらには、河口湖町で栽培が難しいとされる桃の栽培を始めたことを「30年前に地元ではできないと言われた“さくらんぼ”を栽培し始めた親父に似ているだろ!ひねくれものだから人と同じことはできないんだよ!」と亡き母に自慢したいのだそう。
昔ながらの“妻”だったタケルさんの母は、子供を背負いながら農作業をし、ぜいたくもせず、我慢強い女性だった。ふたりの子供を授かったことでタケルさんはよりそのたいへんさを知った。
「自由に仕事をばかりしていた父親に変わって、家事や子育てをしながらも農作業もやっていたスーパーかあちゃん」との思い出の品は“父と母が築き上げたさくらんぼの畑”。
学生時代に家の手伝いをすることが多かったタケルさんにとって、多くの時間を母とともに過ごしたさくらんぼ畑に立つことで“母”のことを思い出す。
母がいたときにあった木が枯れたときは何か大事な思い出が消えた気がする…。
ただ母が言っていたのは言葉は消えない。
“長い時間畑にいるとさくらんぼの木が語りかけてくるのよ”と言っていた母の言葉。当時は信じられなかったが、今となっては少しわかる気がする。
時間が経つにつれ段々薄れていく母親との記憶。“憧れて、歩むと決めた両親と同じ道”をたどることで、忘れずにいられて、より両親に近づくことで、感じられる。
“亡き母へのメッセージ”を書いてみて、改めてタケルさんはこう語ります。
『母親との記憶を思い直すことができるいい機会でした。
恥ずかしいですが、書いた手紙を家族にも見せて少ない山梨のじぃじばぁばの思い出にできたらなと思っています。
素晴らしい機会を頂いてありがとうございます――』
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